怒り! 変わらない日本 諦めに身を任せる愚民

2021/10/31衆院選選挙結果である。

Changeを期待して入院中の病院から無理して投票したが、何も変わらなかった。 むしろ自民安定がより強化された。 

著名人による投票啓蒙活動もあり、若者の参選を期待したが、投票率は51%とむしろ戦後最低ラインに下がってしまった。

武井壮が言っていた。”どうせ何も変わらない。投票に行っても、自分の暮らしが上向く訳でない。というのが、若者の気持ち”と。 残り49%の投票は反自民に行けば、変革の可能性があったのに、わかったような口を利く 愚かな若者ども。

「自民以外に政権担当能力がない」 これもよく聞く訳知りコメントだ。 自民党以外の野党は無能力者の集まりなのか? 能力者は自民党にしかいないのか? 不思議な事だ。 

自民党に長年政権をまかせ、彼らの勝ちやすい選挙の仕組み(小選挙区制)を作らせ、彼らを勝ち続けさせているから、政権運営に習熟し、また利権絡みの富を蓄積し続け、その金の力も使い、好きなようにやれているから、政権運営がうまくいっているように見えるだけではないか? 与党、野党で人間の能力が基本的に違う事はありえない。 単に野党に政権運営の機会がないから、不慣れで、資金もなく、無能力に見えるのではないのか? 

なぜアメリカは民主と共和が交代で政権を運営できるのか? アメリカの民はバランス感覚に優れていて、一党独裁を許さないのか? 日本愚民はなにもわからず 自民党政権運営に身をまかせ、それを是としているのか、諦めているのか? 変革を期待し続けてきたが、何も変わらず諦めを選ぶ日本人の愚かさにほんと疲れてしまった。

選挙結果を振り返ると野党の中での票の食い合い 立民共産の票が維新に食われただけで自民安定には何も影響がなかった。

維新が自民に対抗しうる2大政党の一翼を担うのなら、それでも良い。 要するにこれ以上長く自民党一党独裁を許すべきではないという事。 2022年参院選で維新が野党第一党として躍り出る事を期待したい。

 

 

 

誰にも言えない人生後悔日記

人生初の内臓疾患で大学病気に入院した。

日がな一日病室の天井を見ながらツラツラと考え事をしていると、家族にも友人にも誰にも聞いて貰えない、否、決して言ってはならない心の内を吐露したくなった。 こんなはずじゃなかった、失敗と後悔のブログです。 このブログを読んでも何も人生の糧になるようなものはありません。 せいぜい自分と同じだとの共感を得られるのが関の山です。

さて、

当方コンサル フリーランスで一定の収入と自由時間があり、家族は親子で師業(士業)、自宅は一棟ビル、外車2台持ち、ゴルフ週一という暮らしぶり。

側からは裕福、幸せ、何の苦労も無いやつとか良く言われますが、実情は全く違ってる。

キリギリスの人生を歩んできてしまって何の蓄えもない。人生の終わりが近づいているがそこまでには蓄えも食いつぶしてしまいそう。

TVでは5000万円の車を何台ももっている人が車自慢をしているが、こちとら、1000万円以上の車を持つ余裕はない。 下の上か良くても中の下のレベルだ。

これまで一所懸命勉学に努め、真面目に生きてきたはず。 スポーツ系とか、芸能系とかをどこか見下してきたが、社会的地位ではとっくに抜かれている。 人望もない、金もない、人にまけないオタクな事がない、何もない。

遥か昔は 末は博士が大臣かと煽てられ、まだ走りだった頃の中学受験で新興中堅の中高一貫校に滑り込んだ所まではまあ順調だったかなあ。

いつから狂ってしまったのだろう?

そういえばこれまで一度も

新聞に名前が載った事がないし死ぬまでないと思う。要するに社会的地位が無いと言うこと。

ずっと馬鹿にしてきた学の無い親父でさえ長年コツコツと地道に働いてきた結果国から勲章が出ているが、それもありえない。

何も成就出来なかった人生、

世の中格付け言えば下の上かせいぜい中の下の人生、こんなはずじゃなかった人生、どうしてこうなってしまったか、時代を追いながら振り返りたいと思います。 …

 

今週は連日の秋晴れが続いている。病窓からは天高く馬こゆる秋  取り残された感の私は後悔日記を書く続ける事にする。

[幼少期]

自分史の中では数少ない輝いていた時期だった。大人からは可愛らしく、また賢く見えていたのだろう。親から溺愛され我儘に育っていった。自分の判断力の無い他の幼稚園児からも人気が高かった。誕生会にはお気に入りの子も押しかけていた。60年以上経った今でもお気に入り三名の苗字名前を覚えている。順風満帆だった。が、甘やかされ育った私の性格は徐々に歪んでいった。第一子として可愛がられ何でも思い通りになっていたから、何か思い通りに行かない事があると、激昂する様になって行った。朧げな記憶となってしまったが、何かのきっかけで、手に持っていた鉄製の機関車を祖父の顔面に投げつけてしまい顔に怪我をさせてしまった事がある。またその事を素直に謝らながったような気がする。歪んだ性格の片鱗だ…

[学童期]

小3まではまだ輝いていたかなあ。

今では何か差別感があるので、やられているかどうか知らないが当時はIQテストが行われていた。 多少出来が良かったようだ。小1、2の担任恩師が偉く評価してくれていた。 先生に可愛がられている子供は有利だった。 いつも学級委員をやらせれていた。 幼児期同様今でも姓名を覚えている好きな子が2,3人いる。 学年が変わる度に同じクラスになれるよう、お祈りしていた。

小4以降は人気は衰えていった。

子供たちも判断力が付くようになってくると、先生のお気に入りだけでは、通用しなくなっていった。 運動神経があるく、野球とか、ドッジボールとか、徒競走とか、不得意だった。 不良っぽくもなかった。 親のいう事をよく聞く 親からみて良い子は同学年の子供たちからみて人気がある訳ではない。 むしろ いけ好かない奴という事だったのだろう。 学級委員は引き続き何期か務めたが、クラスでの人気は低下していった。 親につれられ、当時始まったばかりの中学受験大手進学塾に通いだした。 クラスでのコミュニケーションはますます疎遠になっていった。 何十年のたったいま、小学校時代の友達はいない。

「中学・高校」

今でこそ新御三家などといわれているが、当時は創設されたばかりの無名中堅の中高一貫進学校にかろうじてひっかかった。 片田舎の小学校では成績優秀できたが、無名神学校では半分以下の順位で入学させてもらった。 胃の中の蛙。世の中にはできる人が多くいると思い知った。 が、中2で突然勉強が楽しくなった。 特に数B(幾何)、生物が好きだった。 数Bで定理、公理をつかった問題解きが楽しくてしょうがなかった。中間、期末試験で問題を解くのが、楽しくてしょうがなかった。生物試験問題の回答欄が足りなくなるほど、びっしり埋め尽くした。 後は英語は好きだった。 特に文法(グラマー)が性に合っていた。 また通学時に英単語丸暗記を続けていた。赤尾の豆単は何度も覚えていた。 只なかなか最後までたどり着かず、aから始まる単語の方がよく覚えていた。 語彙テストでもかなりトップクラスをいっていた。 という事で、中2から彗星のごとく成績上位者となった。 得意だった。 スポーツは相変わらずだめだったが、周りに人が集まってきたことも多く、楽しかった。が、この世の春は長くは続かなかった。

エスカレートで高校生となるが、徐々に苦手科目が増えていった。日本史、世界史など記憶力勝負な科目は何度覚えようとしても頭に入らなかった。 本も読まないから、歴史物語としても頭に入らなかった。 現代文の不得意。 通信教育Z会もやってはみたが、国語は全く解けなかった。 物理も訳がわからなくなっていった。 要するに英語と数学以外が不得意になっていった。 頭の構造は理数系で、理屈で物事を考えるのは得意だったが、記憶系、文学系が不得意だった。社会への関心も低く、歴史とか、政治経済とか何度努力しても苦手科目のままだった。

クラブ活動もスポーツ系にいかず、軟弱な音楽愛好会で過ごした。 音痴で、音楽の才能は無かったのに、無理してそこに居場所を求めていた。 またそれが、親の期待に応える事のように思っていた。 今人生やり直すなら、武闘肉弾戦系のラグビー、剣道、ボディービル、もしくはゴルフをやりたいと思う。

「異性」6年間ほぼゼロだった。思春期だから頭の中は異性の事で常に一杯だったが全く持てなかった。ナンパされるようなルックスではなった。魅力をもっていなかった。 ナンパする度胸もなかった。 同類の友達と 半どん土曜の午後、吉祥寺の繁華街をぶらぶら、ビリヤードで4玉をプレーするぐらいが精々の息抜きだった。

「友人」今でも年賀状をやりとりする中高の友人は一人だけた。 卒業後もうすぐ50年になるが、一度も足を踏み入れていない。 恩知らずである。

「受験」

大学受験が近づくにつれ、浪人の恐怖感が増していたった。 クラスは医科系にいたが、私大にいかせてもらえるほどの財力が親にはなかった。 国立に受かる程の実力が無かった。 それまで挫折のない人生だった。 浪人という挫折を受け入れるだけの度胸が無かった。 怖かった。 

逃げてしまった。 音楽愛好会の先輩がいった語学系有名私大への推薦入学に手を挙げてしまった。しかも、就職に有利かもという親の根拠のないガイドに従い、何ら興味のない語学科を選んでしまった。  せめて英語か、興味のあった仏語にすれば人生変わっていたはずだ。 せめて浪人を受け入れられる度胸があったら、医師になって、人生変わっていたはずだ。 この点、出来の悪いわが子に頭が下がる。 わが子は浪人もふくめ3年挫折したが、何とか初志貫徹してなりたい職業につけた。 だめだだめだと育てた我が子だが、自分はそれ以下だった。

いずれにせよ大学受験を逃げってしまってから、わが人生は狂いだしてしまった。

「大学」

入学式に桜満開の正門前を歩いているとき、嬉しさでにやけてしまい、顔をあげる事が出来なかった。 大学生活で唯一輝いた日が入学式だった。

興味のない言語だったから、何も頭に入らなかった。 成績は最下位だった。 いとこたちからは、理科系だと思っていたと何度かいわれた。 その通り。 頭が文系ではない。 英語は理科系、文系どちらでも必要だが、異なる言語、それも興味のない言語では、成績も上がらないのも致し方がない。 唯々遊ぶ事、飲むことしか考えていなかった。 悪い友達ができ、いつもつるんでいた。 遊びで波乗りもしたが、結局乗れるようにはなれなかった。 丘サーファーだった。 部活はまだ音楽系にいってしまったが、基本興味も才能もないので、長続きしなかった。 ゴルフにも関心なかった。 結局大学生活で得たものはなにもなかった。 唯一何人かの友達ができ、実家にいったり、海へいったり、多少なりとも楽しい生活を送る事ができた。 卒業後40年たって、今でも連絡をとりあえる友は一人だけとなったが、大切にしたい。

大学生活での最大の挫折は、当方たった一人のみ留学試験で落とされた事だった。

成績も最下位だから実力的にやむを得なかったと思うが、たった一人不合格にされてしまったときの屈辱感は今でも忘れない。わが子はその屈辱感を3度も味わって這い上がったのだから、頭が下がる。 

「就職」

最初の就職に失敗した。